; 嫌われる勇気を読んで
学生の時私は、○○で育ったから今こうなってしまった、○○だから不幸だ。と思っていた。
ですが嫌われる勇気では、「フロイト的な原因論ではなく、目的論に立脚すべきだ。過去に原因を求めてはいけない、トラウマを否定せよ、人は過去の原因に突き動かされる存在ではなく、何かしらの目的を達成するために動いているのだ」と書かれていた。
これを読んだとき、最初の文は完全に原因論ではないか。選択していたのはいつでも私だったのだと気づいた。でも私は勇気(動く力)があったからつらい日々から逃れたくて家を飛び出し付き合って間もない恋人の家に住むようになった。
この話をすると、「その時恋人がいたから逃れられたのじゃないか!!環境が恵まれていたからじゃないか!」と投げかけられるのだがそれも、恋人に限らず交友を求めてSNSで動いてたからであって運がよかったのかもしれないが、導いていたのは全部自分の行動だった。
学生の時から私は、原因論もみるが目的論を意識していたのかもしれない。
だから、過食嘔吐や自傷行為も直せたのかもしれないと今は思う。
ここまですらすらと「動いた方が良い」といってはいるがとても難しいことも分かっている。変わることは怖い、だから現状維持したくもなるが、あなたが恐れているよりも変化は恐ろしくないと私は伝えたい。
; 不登校と母と私の話。
中学3年生のある時、昼休みに過呼吸を起こしてしまった。友達に保健室に連れてってもらって、私が落ち着くまで保健室の先生が付き添ってくれた。少し経ってから落ち着いて、辛かったな〜なんて呑気にしていたら(過呼吸なので涙は出ている)保健室の先生に、「大丈夫?何かあったかな…」と心配されてふと私は大丈夫じゃないのか?と疑問を持ち始めてから崩れ始めた。
例えば、今までバケツの中にストレスという水を少しずつ入れていて零れる前に自分で捨てられるようになっていたのが突然コップになって、今までバケツに貯めていた水が零れたという感じだ。
高校1年生の時、私の性格の問題かクラスに馴染めず学校というものが嫌になった。それでも、何とかギリギリ出席日数で上がれるということで、最後の担任の先生との面談で「この子と一緒だったら学校に行こうって思える子はいるかな」という質問で2人くらい言い、少し明るい気持ちで高校2年生になれると思った。
だけど、そのことは一緒にはならなかった。あまり話したことない人ばかりで不安だったが私と仲良くしてくれる子は沢山いた。学校は恵まれだと思った。でも、それだけでは終わらなかった。
母と私の関係はその頃から最悪になってしまった。母はひたすらに「貴方はダメだ…」(その他は割愛)と毎日言われ続け自暴自棄になっていった。
その出来事は大学になっても続いた。
だから私は、家にいたら私も母もどちらも傷つけ合うから出ていかなければならないと思い、わずか2ヶ月足らずの付き合いの今の恋人の家に逃げた。
それからとても良好な関係を築けた。
今思うの事は、あれは母なりの思いやりであり優しさだったのであることは確かだ。ただ、母が子供だった時、レールを沿う人生だったのを私に強要してしまったのが少し悪かったのかもしれない。私も自分の思想や意見を言わないまま、ひたすらに逆らってしまったのも悪かった。
私と母は似ているところが沢山あるので、もう少しお互い穏やかに自分達のことを話す時間が必要だったのだ。
でも今更過去を後悔しても仕方がないのでこれから先、母も含め私が後悔してる相手とどう関わっていくかが大事だと思っている。
〇円丸玉球〇
どうもゆです。
僕の両親はビートルズと共にベトナム戦争に反対した世代であり、ジャズと自然と平和を愛し、君が代と原発と戦争が嫌いって感じの人たち。
そういった両親の思想傾向は僕の養育環境にも大きな影響を与えていて、憲法九条がコーランで、協調性より個性を重視し、太平洋戦争は平成生まれだろうと日本人共通の原罪と捉えて周辺諸国に懺悔することが正しいと本気で思い込んでいる子ども時代でした。(今はどう考えているかについては、ここでは書きません!)
そんな僕を偏りから救い出してくれた画期的な概念が、右派と左派という政治思想の表現です。
この右派と左派という表現について、物心ついた青年ゆは「地球は球状だから右は左だし左は右になるんじゃないか!?!?」というアイディアに至り、物心つく前から信じてきた両親の左寄り思想も、突き詰めれば右と交われる可能性があることに気付いたんです。
例えば、大切な人を守るために戦うことと、人類の平和を守るために戦わないことは、優しさという球体の上で交わることができたんです。
こうして、拒絶反応を起こしてきた右派のあれこれを肯定的に受け入れることができるようになりました。
これは、僕にとって閉じた世界が一気に開けた出来事でした。
そして同時に、〇という形状の呪いにかけられた出来事でもありました。
思えばこの世は〇だらけだったんです。
例えば、原子や分子は丸く表現されることが殆どですし、細胞核や血球も丸いです。砂利や石ころも丸い物が多いですし、山も円錐型が多いです。木の幹や動物の体も断面は大概丸いです。
そんな〇が集まってできた地球や月も〇。
太陽も〇。
銀河も〇です。
輪廻転生という東洋死生観も〇で表現されることが多いです。
生まれ変わりを繰り返すことで命が円を描いていきます。
食物連鎖も〇で表現されることが多いです。
衝撃的だったんですが、宇宙も生死を繰り返し〇を成してる説があるみたいです。
ビックバンで生まれた宇宙は「無」の中でどんどん広がりますが、宇宙の広がりと共に太陽などの恒星たちはブラックホールへと成れ果て、いずれ宇宙がブラックホールだらけになると今度はブラックホールの重力によって宇宙の広がりが止められ縮み始めるそうです。そうして究極まで縮んだ宇宙が縮みすぎて爆発。ビックバンが再び起こり歴史が繰り返されるというわけです。
〇に共通する特徴は、ゴールがないことです。
どこまで進んでも最終地点にはたどり着きません。
これを思想に応用すると、すべての思想に答えはなくなります。
ポジティブ思考にとってこれ以上の幸福はありません。
なぜなら、どこに答えを設定するかは自分次第という勝手が許されるからです。
どうせ勝手に落ち着くポイントを決めていいのなら、できる限り明るく楽しいポイントに落ち着けるのです。
一方で答えがないことは苦痛でもあります。
特に他人のことを考えた時。
自分のことは勝手に着地点を決めちゃっていいですが、他人のことは答えを探してもわからないですし、こっちで勝手に決めるわけにもいかず、ぐるぐるぐるぐる回っていきます。
なるほど、こうしてゴウタマシッダールタは菩提樹の下で輪廻から解脱し涅槃に達したということかと仏教に思いをはせてみたり。
はたして、〇は幸福のシンボルなのか、苦痛のシンボルなのか。
その答えも永遠と回っていくことでしょう。
ところで、〇な地名といえば渋谷区円山町!
円と書いて「まる」と読みます。
道玄坂を神泉方向に歩いた先にあるこの町は無数の飲食店とライブハウス、ナイトクラブ、そしてホテルが点在しています。
連日サークルのイベントが開催され、昼夜問わずいろいろと回り回されていきます。
円山町という地名、ぴったりすぎ。
以上です。
差別とコロナ対策
どうもゆです。
昨夜パートナーから「なんで黒人を差別する人がいるの?アダムとイブが白人だったから?」という質問をいただきました。
なるほど旧約聖書を根拠に…そっちもなかなか面白そうなテーマだけどとりあえず置いておいて、僕が今回お話しするのは「そもそも差別ってなんなの?」ってことです。
差別とは「不当な区別」と僕は定義しています。
不当とは「悪いことしてるわけじゃないのに酷いよ…」ってことです。
悪いこととは「法律や道徳による集団の総意」で決められます。
法律は分かりやすいですね。違法=悪いことです。
一方で合法でも悪いことはあります。それを決めるのは道徳です。
悪いことを決める方法はいくつかあります。
現代、多くの法律は民主主義多数決で決められます。
国民のうち「これは悪い!」と思う人が「これは別によくね?」って思う人より多い結果です。
多数決は便利な物事の決め方ですが、時に合理性を欠く場合があります。
(ヒトラーとかサイコ過ぎてさすがに引く…)なんて思っていませんか?
大間違いです。
ナチスドイツのユダヤ迫害はヒトラー個人のパワーではなく、ドイツ国民の多数決によって引き起こされたと言えるのです。なぜなら多数決民主主義はポピュリズムによって簡単にコントロールされてしまうから…ま、この話しはまた今度。
道徳の決め方には、一例に宗教があります。
宗教は「死後天国に行くために神様が決めたルールに従って正しく生きよう」というシステムが多いです。
多数決に揺るがない道徳を示してくれます。
こうして、多数決や宗教で示された「悪いこと」をみんなが悪いと思った結果(集団の総意)、その悪いことをした人を批判したり、逮捕して死刑にしちゃったりすることは、正当な区別であり差別とは呼ばないのです。
「悪いこと」は、諸行無常です(常に変わっていること)。
昔は正しいと思われていたことが、今は間違っていると言われたりします。
また、集団の構成によっても別の「悪いこと」が存在します。
国や地域、宗教、会社や学校、家族、恋人、それぞれに別々の「悪いこと」があります。
「差別は人それぞれで時それぞれの好き嫌い。」
これが、私が差別問題を考えるとき最も大切にしている前提であり、差別反対論者の多くが見失っていることでもあるのです。
パートナーからの質問に戻りましょう。
「黒人を差別する人がいるのはなぜか。」
答えは簡単。
「黒人が嫌いで黒人は悪いと思っている人がいるから」です。
じゃあなぜ黒人を嫌い、黒人を悪いと思うのか、それは「人それぞれで時それぞれ」です。
「そんなの許せない!認められないよ!」って思う人もいるかもしれませんが、かと言ってそのように差別的だと感じるような考えを認めず、否定して排除しようとしても、問題の解決は難しいです。仲間を集めて対立構造をつくっても、お互いに傷付け消耗し合う関係ができるだけです。
むしろお互いを認めて傷付け合わない関係構築が必要だと僕は思います。
認めず否定して排除するアプローチは簡単です。
差別に反対し、差別主義者を倒せばいいだけ。しかし「差別は人それぞれで時それぞれの好き嫌い」だとしたら「差別する人」vs「差別に反対する人」って、真逆の考えのようで方向性は同じとも言えます。
黒人差別の例で言うと(黒人さん何度もすみません)、「黒人を嫌だと思う人」vs「黒人を嫌だと思う人を嫌だと思う人」で争っているとも言えます。こう書くと似たもの同士にも思えてきませんか?
一方で、認めるアプローチはかなり難易度が高いです。
相手のことを深く考える必要があるし、信頼関係も必要になるため時間がかかります。
そもそも相手も同じアプローチをしてもらわないと一方的に負けるだけであり、結局は“さすがに認められない一線”を共通認識として決める必要があります(寛容のパラドックス)。
「じゃあどうすれば!!!」
僕なりに考えたコツを説明します。
他者を認めるためは、人の考えを「正しいかどうか」という物差しで判断しないようにする心構えが有効だと思います。
そもそも「正しいこと」と「間違っていること」なんて厳密には存在しないと僕は考えています。
皆が「正しい」と思っていることは、「人それぞれ時それぞれで移り変わる好ましいと考えられていること」であり、この世の真実だなんて神々しさはないものと思います。
だから僕は、他者の考えが「正しいかどうか」ではなく、「その人の好き嫌いはなにか」という物差しでみるように意識しています。
他者だけではありません。
自分自身の考えについても同じように「正しいかどうか」ではなく好き嫌いで意識しています。
例えば僕は、自殺や安楽死を肯定しています。細かいことは割愛しますが、死に方も自由に選択できる世の中の方が好きだなって思うからです。一方で自殺や安楽死に反対する人のことを間違っているとは思いません。それぞれ細かい理由はあるにしても、とにかく自殺や安楽死が嫌なんだという想いはイメージできるからです。
自分が正しいと思っていなければ否定されても傷付きませんし、相手が間違っていると思っていなければ攻撃的に否定しようとも思いません。
これだけで傷付け合うリスクが大きく減るんです。
もっと身近な例をあげましょう。
あなたが今最も推してるアイドルの顔を思い浮かべてください。アニメのキャラクターでも構いません。
ちなみに僕はハンターハンターなら幻影旅団のノブナガが好きです。
もし他人からその推しについて「私は好きじゃないな…」と言われたとします。残念だなという気持ちになりますね。
でもまあ、確かにノブナガはハンサムなキャラではないし、攻撃も地味だし、仕方ないか…
次に、別の人からは「そいつを推すのは間違っている」と言われたとしたら…なんか腹立ちません?
(いや別にええやん!!)って内なる関西人が出てきちゃいますよね。
好き嫌い評価と正しいかどうかの評価にはこれくらい差があるんです。
これは昨今のコロナ外出自粛問題でも応用できます。
外出否定派と外出容認派のネット上での罵り合いはSNSをやってれば誰しも目の当たりにしたことがあるでしょう。自身が当事者という方も少なくないはずです。
双方が激しくぶつかる理由は、どちらも自分が「正しい」と思っているからです。
でもどうでしょう。あなたが新型コロナ感染症対策のスペシャリストならまた違うかもしれませんが、そうじゃない多くの人は「何となく」外出の可否を自己判断しているんじゃないですか?
1+1=2のような確固たる根拠もないのに、「何となく」気やすく外出したり、「何となく」頑なに外出しなかったりしているんじゃないですか?
では意識を変えましょう。
あなたが気やすく外出すること(もしくは外出しないこと)は、正しいからではありません。その方が好ましいと勝手に思ったからです。
そして、自分とは反対の行動をする人たちは間違っているわけではありません。アイドルの推しが異なるように好みが合わない人たちなんです。
この意識が広がれば、外出する人はより慎ましく外出し、外出否定派が外出する人を頭ごなしに否定することも減るでしょう。
「正しいことなんてない」
「好き嫌いは時それぞれで人それぞれ」
これを僕は常に意識しています。
最後に、人の多様性を尊く思えた僕の体験談を紹介します。
去年、お世話になっていた上司が退職することになって、一緒に働く最後の日に花束をプレゼントすることになりました。
花束を買うために行った駅前の花屋の店先には色んな花が並んでいて、人それぞれ好みはあるだろうけど、どれもみんな綺麗でした。
この中で誰が一番なんて争うこともしないで、バケツの中誇らしげにしゃんと胸を張ってたんです。
それなのに僕ら人間はどうしてこうも比べたがるんでしょうか。
ひとり一人違うのにその中で一番になろうなんて…
そして僕は気付いたんです。そうさ僕らは世界に一つだけの花なんだと。
以上です。
; スパルタの狐 物語と私の想い
スパルタ教育という言葉は、古代のギリシャにあったスパルタという都市国家の教育制度からきている。この国はとても若者に厳しかった。
そのスパルタである夜、子供が狐の子を1匹盗んでしまった。盗んだことがバレると大変なことになるので、子供は洋服の下に狐の子を隠して夜道を急いだ。
すると、狐の子は苦しがって子供のお腹に噛み付いた。とても痛かったが声をあげたら気付かれてしまうので我慢して歩き続けた。狐の子はますます必死に噛み付いてきたが子供は歯を食いしばって耐えた。
その後どうなったか。
子供は我慢し過ぎて、死んでしまった。
我慢と秘密が同居する罪は、その子供を滅ぼす。
引用 桜庭一樹 「少女には向かない職業」
一つだけ言えることは、子供でも大人でも我慢をしすぎないで欲しい。その秘密が重いければ重いほど自分の罪に殺されてしまうから。