差別とコロナ対策

どうもゆです。

 

昨夜パートナーから「なんで黒人を差別する人がいるの?アダムとイブが白人だったから?」という質問をいただきました。

 

なるほど旧約聖書を根拠に…そっちもなかなか面白そうなテーマだけどとりあえず置いておいて、僕が今回お話しするのは「そもそも差別ってなんなの?」ってことです。

 

差別とは「不当な区別」と僕は定義しています。

 

不当とは「悪いことしてるわけじゃないのに酷いよ…」ってことです。

 

悪いこととは「法律や道徳による集団の総意」で決められます。

 

法律は分かりやすいですね。違法=悪いことです。

 

 

 

一方で合法でも悪いことはあります。それを決めるのは道徳です。

 

悪いことを決める方法はいくつかあります。

 

現代、多くの法律は民主主義多数決で決められます。

国民のうち「これは悪い!」と思う人が「これは別によくね?」って思う人より多い結果です。

多数決は便利な物事の決め方ですが、時に合理性を欠く場合があります。

 

例えばナチスドイツのユダヤ迫害。

ヒトラーとかサイコ過ぎてさすがに引く…)なんて思っていませんか?

大間違いです。

ナチスドイツのユダヤ迫害はヒトラー個人のパワーではなく、ドイツ国民の多数決によって引き起こされたと言えるのです。なぜなら多数決民主主義はポピュリズムによって簡単にコントロールされてしまうから…ま、この話しはまた今度。

 

道徳の決め方には、一例に宗教があります。

宗教は「死後天国に行くために神様が決めたルールに従って正しく生きよう」というシステムが多いです。

多数決に揺るがない道徳を示してくれます。

 

こうして、多数決や宗教で示された「悪いこと」をみんなが悪いと思った結果(集団の総意)、その悪いことをした人を批判したり、逮捕して死刑にしちゃったりすることは、正当な区別であり差別とは呼ばないのです。

 

「悪いこと」は、諸行無常です(常に変わっていること)。

 

昔は正しいと思われていたことが、今は間違っていると言われたりします。

 

また、集団の構成によっても別の「悪いこと」が存在します。

国や地域、宗教、会社や学校、家族、恋人、それぞれに別々の「悪いこと」があります。

 

「差別は人それぞれで時それぞれの好き嫌い。」

 

これが、私が差別問題を考えるとき最も大切にしている前提であり、差別反対論者の多くが見失っていることでもあるのです。

 

パートナーからの質問に戻りましょう。

 

「黒人を差別する人がいるのはなぜか。」

 

答えは簡単。

「黒人が嫌いで黒人は悪いと思っている人がいるから」です。

じゃあなぜ黒人を嫌い、黒人を悪いと思うのか、それは「人それぞれで時それぞれ」です。

 

「そんなの許せない!認められないよ!」って思う人もいるかもしれませんが、かと言ってそのように差別的だと感じるような考えを認めず、否定して排除しようとしても、問題の解決は難しいです。仲間を集めて対立構造をつくっても、お互いに傷付け消耗し合う関係ができるだけです。

 

むしろお互いを認めて傷付け合わない関係構築が必要だと僕は思います。

 

認めず否定して排除するアプローチは簡単です。

差別に反対し、差別主義者を倒せばいいだけ。しかし「差別は人それぞれで時それぞれの好き嫌い」だとしたら「差別する人」vs「差別に反対する人」って、真逆の考えのようで方向性は同じとも言えます。

 

黒人差別の例で言うと(黒人さん何度もすみません)、「黒人を嫌だと思う人」vs「黒人を嫌だと思う人を嫌だと思う人」で争っているとも言えます。こう書くと似たもの同士にも思えてきませんか?

 

一方で、認めるアプローチはかなり難易度が高いです。

相手のことを深く考える必要があるし、信頼関係も必要になるため時間がかかります。

そもそも相手も同じアプローチをしてもらわないと一方的に負けるだけであり、結局は“さすがに認められない一線”を共通認識として決める必要があります(寛容のパラドックス)。

 

「じゃあどうすれば!!!」

 

僕なりに考えたコツを説明します。

 

他者を認めるためは、人の考えを「正しいかどうか」という物差しで判断しないようにする心構えが有効だと思います。

 

そもそも「正しいこと」と「間違っていること」なんて厳密には存在しないと僕は考えています。

皆が「正しい」と思っていることは、「人それぞれ時それぞれで移り変わる好ましいと考えられていること」であり、この世の真実だなんて神々しさはないものと思います。

 

だから僕は、他者の考えが「正しいかどうか」ではなく、「その人の好き嫌いはなにか」という物差しでみるように意識しています。

 

他者だけではありません。

自分自身の考えについても同じように「正しいかどうか」ではなく好き嫌いで意識しています。

 

例えば僕は、自殺や安楽死を肯定しています。細かいことは割愛しますが、死に方も自由に選択できる世の中の方が好きだなって思うからです。一方で自殺や安楽死に反対する人のことを間違っているとは思いません。それぞれ細かい理由はあるにしても、とにかく自殺や安楽死が嫌なんだという想いはイメージできるからです。

 

自分が正しいと思っていなければ否定されても傷付きませんし、相手が間違っていると思っていなければ攻撃的に否定しようとも思いません。

 

これだけで傷付け合うリスクが大きく減るんです。

 

もっと身近な例をあげましょう。

 

あなたが今最も推してるアイドルの顔を思い浮かべてください。アニメのキャラクターでも構いません。

ちなみに僕はハンターハンターなら幻影旅団のノブナガが好きです。

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もし他人からその推しについて「私は好きじゃないな…」と言われたとします。残念だなという気持ちになりますね。

でもまあ、確かにノブナガはハンサムなキャラではないし、攻撃も地味だし、仕方ないか…

 

次に、別の人からは「そいつを推すのは間違っている」と言われたとしたら…なんか腹立ちません?

(いや別にええやん!!)って内なる関西人が出てきちゃいますよね。

 

好き嫌い評価と正しいかどうかの評価にはこれくらい差があるんです。

 

これは昨今のコロナ外出自粛問題でも応用できます。

 

外出否定派と外出容認派のネット上での罵り合いはSNSをやってれば誰しも目の当たりにしたことがあるでしょう。自身が当事者という方も少なくないはずです。

双方が激しくぶつかる理由は、どちらも自分が「正しい」と思っているからです。

 

でもどうでしょう。あなたが新型コロナ感染症対策のスペシャリストならまた違うかもしれませんが、そうじゃない多くの人は「何となく」外出の可否を自己判断しているんじゃないですか?

 

1+1=2のような確固たる根拠もないのに、「何となく」気やすく外出したり、「何となく」頑なに外出しなかったりしているんじゃないですか?

 

では意識を変えましょう。

あなたが気やすく外出すること(もしくは外出しないこと)は、正しいからではありません。その方が好ましいと勝手に思ったからです。

そして、自分とは反対の行動をする人たちは間違っているわけではありません。アイドルの推しが異なるように好みが合わない人たちなんです。

 

この意識が広がれば、外出する人はより慎ましく外出し、外出否定派が外出する人を頭ごなしに否定することも減るでしょう。

 

「正しいことなんてない」

「好き嫌いは時それぞれで人それぞれ」

 

これを僕は常に意識しています。

 

最後に、人の多様性を尊く思えた僕の体験談を紹介します。

 

去年、お世話になっていた上司が退職することになって、一緒に働く最後の日に花束をプレゼントすることになりました。

花束を買うために行った駅前の花屋の店先には色んな花が並んでいて、人それぞれ好みはあるだろうけど、どれもみんな綺麗でした。

この中で誰が一番なんて争うこともしないで、バケツの中誇らしげにしゃんと胸を張ってたんです。

それなのに僕ら人間はどうしてこうも比べたがるんでしょうか。

ひとり一人違うのにその中で一番になろうなんて…

 

そして僕は気付いたんです。そうさ僕らは世界に一つだけの花なんだと。

 

以上です。